【雑記】目白台の坂 [PEN]
一度書いたのに、
なぜか全部消えてしまった…
iPad Proで書いたのだけど、
そのiPad Proも壊れてしまい、
設定し直し…
iPadが壊れるなんて初めて!
ショックで書き直す気がおきなかったけど、
そろそろ書こうかな…と思う
先日行った『鉄砲坂』
工事をしてて全容が撮れなかったので、
再度訪問
神田川沿いを歩き、
江戸川公園に向かう
首都高下の遊歩道を歩いていると、
車が来た!
遊歩道と思ってたけど、
途中から変わった???
とりあえず『鉄砲坂』へ向かうと、
左側に見たことある階段坂を発見!
本で見た『七丁目坂』だった
“音羽一丁目22の南側を入り、
目白台の獨協中学・高等学校の方に上る大きく右回りに曲がる坂である。
旧音羽七丁目と八丁目の間から上る坂で、
七丁目坂と名づけられた。
『ぶんきょうの坂道』
文京区文京ふるさと歴史館発行、
平成25年3月28日改訂版発行(第11刷)より”
『七丁目坂』の一本北側にあるのが、
『鉄砲坂』
“この坂は音羽の谷と目白台を結ぶ坂である。
坂下の東京音楽大学学生寮のあたりは、
江戸時代には崖を利用して鉄砲の射撃練習をした的場(角場・大筒角場ともいわれた)であった。
その近くの坂ということで「鉄砲坂」とよばれるようになった。
文京区教育委員会の標識(平成8年3月)より”
自転車を降りて押さないといけないくらいの勾配
この辺りからグッとキツくなってきます
学生寮がある
まだまだ続く急勾配
ふぅ〜っ、やっと上りきった…
こんなにキツくて狭い坂なのに、
結構な人通りがあります
せっかくなので、
近くにある『薬罐坂』に行ってみることに
目白通りに出て、
2、3ブロック北側の道を右折すると、
『薬罐坂』に出るはず…と曲がってみる
ちょっとゆる〜い坂を下りているが、
これだろうか?と不安がよぎる
もうすぐ不忍通りに出るってところで、
標識が出てきた…あってた〜
『薬罐坂』
“江戸時代、坂の東側は松平出羽守の広い下屋敷であったが、
維新後上地され国の所有となった。
現在の筑波大学付属盲学校一帯にあたる。
また、西側には広い矢場があった。
当時は大名屋敷と矢場に挟まれた淋しい所であったと思われる。
やかん坂のやかんとは、野カンとも射干とも書く。
犬や狐のことをいう。
野犬や狐の出るような淋しい坂道であったのであろう。
また、薬罐のような化物が転がり出た、
とのうわさから、薬罐坂と呼んだ。
夜寒坂のおこりは、この地が「夜さむの里道」と、
風雅な呼び方もされていたことによる。
この坂を挟んで、
東西に大町桂月(1869~1925、評論家、随筆家)と、
窪田空穂(1877~1967、歌人、国文学者)が住んでいた。
この道を行きつつみやる谷こえて
蒼くけぶる護国寺の屋根(窪田空穂)
文京区教育委員会の標識(平成13年3月)より”
ゆる〜い勾配
『鉄砲坂』の後だからそう感じるのだろうか???
『清戸坂』(不忍通り)に出ました
“延宝4年(1676年)、御三家 尾張徳川家の御鷹場が、
中清戸(現清瀬市) につくられた。
将軍もしばしば出かけて鷹狩りを行った。
これが現在の目白通りである。
首都高速道路(5号線)護国寺出入口(護国寺側)から目白通りに向っての広い道は、
昔から‘清戸道に登る坂’ということで『清戸坂』といわれた。
江戸時代、この坂の北側一帯は、
雑司ヶ谷村の畑(現在の雑司ヶ谷墓地)で、
坂の道に沿って雑司ヶ谷清土村百姓町があった。
明治10年代から坂の北側には牧場と牧舎が建ち、
平田牧場と言った。
牛乳を売る小売店があり、人々が休憩した。
旗竿には、『官許の牛の乳』と假名と、
ローマ字で書かれていたという。
文京区教育委員会の標識(昭和62年3月)より”
なんか前より広くなった気がするのは、
気のせいだろうか???
帰り道
この辺りでは一番有名ではないかと思う、
『富士見坂』に行った
不忍通りを上りきり、
目白通りを渡って、
趣のある酒屋さんを左折すると、
『富士見坂』に入る
思ってたより急勾配
左側は『日無坂』
“日無坂(東坂)目白台一丁目15と豊島区の間
目白通りと、護国寺方面から上がる清戸坂が接する地点から、
豊島区高田一丁目方面へ南に下る坂がある。
坂上の石柱に「富士見坂」とある。
明治百年記念に高田富士見会が建てたものである。
この富士見坂の坂上より見て左手、
南の方にまっすぐ、せまい石段坂が急傾斜で下っている。
これが日無坂で、この坂道が文京区と豊島区の区境になっている。
小布施坂の西側である。
「ひなし坂は当町(高田豊川町)の南西角。
即ち駒塚橋の通りより北の雑司ヶ谷に上る坂をいふ。
其の路甚だ狭隘(きょうあい)にして。
小車を通ずるを得ず。
僅かに一人づゝの歩を容(い)るゝのみ。
左右樹木等にて蔽(おお)ひ居れば。
日無坂の義にてかく呼ぶならむか」(『新撰東京名所図会』)。
『ぶんきょうの坂道』(文京区文京ふるさと歴史館発行、平成25年3月28日改訂版発行(第11刷)より”
このおうちも崩れがひどくなってきた
見上げてみると、
結構長い!
この辺りは本当に坂が多い!
まだまだ行けてないご近所の坂が沢山ある
徐々に制覇していきたい!
なぜか全部消えてしまった…
iPad Proで書いたのだけど、
そのiPad Proも壊れてしまい、
設定し直し…
iPadが壊れるなんて初めて!
ショックで書き直す気がおきなかったけど、
そろそろ書こうかな…と思う
先日行った『鉄砲坂』
工事をしてて全容が撮れなかったので、
再度訪問
神田川沿いを歩き、
江戸川公園に向かう
首都高下の遊歩道を歩いていると、
車が来た!
遊歩道と思ってたけど、
途中から変わった???
とりあえず『鉄砲坂』へ向かうと、
左側に見たことある階段坂を発見!
本で見た『七丁目坂』だった
“音羽一丁目22の南側を入り、
目白台の獨協中学・高等学校の方に上る大きく右回りに曲がる坂である。
旧音羽七丁目と八丁目の間から上る坂で、
七丁目坂と名づけられた。
『ぶんきょうの坂道』
文京区文京ふるさと歴史館発行、
平成25年3月28日改訂版発行(第11刷)より”
『七丁目坂』の一本北側にあるのが、
『鉄砲坂』
“この坂は音羽の谷と目白台を結ぶ坂である。
坂下の東京音楽大学学生寮のあたりは、
江戸時代には崖を利用して鉄砲の射撃練習をした的場(角場・大筒角場ともいわれた)であった。
その近くの坂ということで「鉄砲坂」とよばれるようになった。
文京区教育委員会の標識(平成8年3月)より”
自転車を降りて押さないといけないくらいの勾配
この辺りからグッとキツくなってきます
学生寮がある
まだまだ続く急勾配
ふぅ〜っ、やっと上りきった…
こんなにキツくて狭い坂なのに、
結構な人通りがあります
せっかくなので、
近くにある『薬罐坂』に行ってみることに
目白通りに出て、
2、3ブロック北側の道を右折すると、
『薬罐坂』に出るはず…と曲がってみる
ちょっとゆる〜い坂を下りているが、
これだろうか?と不安がよぎる
もうすぐ不忍通りに出るってところで、
標識が出てきた…あってた〜
『薬罐坂』
“江戸時代、坂の東側は松平出羽守の広い下屋敷であったが、
維新後上地され国の所有となった。
現在の筑波大学付属盲学校一帯にあたる。
また、西側には広い矢場があった。
当時は大名屋敷と矢場に挟まれた淋しい所であったと思われる。
やかん坂のやかんとは、野カンとも射干とも書く。
犬や狐のことをいう。
野犬や狐の出るような淋しい坂道であったのであろう。
また、薬罐のような化物が転がり出た、
とのうわさから、薬罐坂と呼んだ。
夜寒坂のおこりは、この地が「夜さむの里道」と、
風雅な呼び方もされていたことによる。
この坂を挟んで、
東西に大町桂月(1869~1925、評論家、随筆家)と、
窪田空穂(1877~1967、歌人、国文学者)が住んでいた。
この道を行きつつみやる谷こえて
蒼くけぶる護国寺の屋根(窪田空穂)
文京区教育委員会の標識(平成13年3月)より”
ゆる〜い勾配
『鉄砲坂』の後だからそう感じるのだろうか???
『清戸坂』(不忍通り)に出ました
“延宝4年(1676年)、御三家 尾張徳川家の御鷹場が、
中清戸(現清瀬市) につくられた。
将軍もしばしば出かけて鷹狩りを行った。
これが現在の目白通りである。
首都高速道路(5号線)護国寺出入口(護国寺側)から目白通りに向っての広い道は、
昔から‘清戸道に登る坂’ということで『清戸坂』といわれた。
江戸時代、この坂の北側一帯は、
雑司ヶ谷村の畑(現在の雑司ヶ谷墓地)で、
坂の道に沿って雑司ヶ谷清土村百姓町があった。
明治10年代から坂の北側には牧場と牧舎が建ち、
平田牧場と言った。
牛乳を売る小売店があり、人々が休憩した。
旗竿には、『官許の牛の乳』と假名と、
ローマ字で書かれていたという。
文京区教育委員会の標識(昭和62年3月)より”
なんか前より広くなった気がするのは、
気のせいだろうか???
帰り道
この辺りでは一番有名ではないかと思う、
『富士見坂』に行った
不忍通りを上りきり、
目白通りを渡って、
趣のある酒屋さんを左折すると、
『富士見坂』に入る
思ってたより急勾配
左側は『日無坂』
“日無坂(東坂)目白台一丁目15と豊島区の間
目白通りと、護国寺方面から上がる清戸坂が接する地点から、
豊島区高田一丁目方面へ南に下る坂がある。
坂上の石柱に「富士見坂」とある。
明治百年記念に高田富士見会が建てたものである。
この富士見坂の坂上より見て左手、
南の方にまっすぐ、せまい石段坂が急傾斜で下っている。
これが日無坂で、この坂道が文京区と豊島区の区境になっている。
小布施坂の西側である。
「ひなし坂は当町(高田豊川町)の南西角。
即ち駒塚橋の通りより北の雑司ヶ谷に上る坂をいふ。
其の路甚だ狭隘(きょうあい)にして。
小車を通ずるを得ず。
僅かに一人づゝの歩を容(い)るゝのみ。
左右樹木等にて蔽(おお)ひ居れば。
日無坂の義にてかく呼ぶならむか」(『新撰東京名所図会』)。
『ぶんきょうの坂道』(文京区文京ふるさと歴史館発行、平成25年3月28日改訂版発行(第11刷)より”
このおうちも崩れがひどくなってきた
見上げてみると、
結構長い!
この辺りは本当に坂が多い!
まだまだ行けてないご近所の坂が沢山ある
徐々に制覇していきたい!
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