【雑記】谷中霊園 [PEN & OM-D]
谷中霊園も桜の名所だということで、
行ってみることに
千駄木辺りでバスを降り、
プラプラ〜ッと谷中銀座へ
お店は開店準備で忙しそう…
それでも外国人客が、
沢山歩いていました
人気なんですねぇ
夕やけだんだんを上り、
西日暮里方面へ歩いて行くと、
見たことある坂を発見!
『富士見坂』
“坂下の北側の墓地は日蓮宗妙隆寺(修正院に合併)の跡。
妙隆寺が花見寺と呼ばれたことから、
この坂も通称「花見坂」、
または「妙隆寺坂」と称された。
都内各地に残る「富士見」を冠する地名のなかで、
現在でも富士山を望むことができる坂である。
都心にいくつかある富士見坂のうち、
最近まで地上から富士山が見える坂でした。
「関東の富士見百景」にも選ばれています。
『あらかわの史跡・文化財』より”
TVで見た『富士見坂』でした
最近まで富士山が見られたようです
見てみたかったなぁ…
『富士見坂』を下りて右折すると、
立派なしだれ桜を発見!
『日ぐらしの布袋(修正院)』
“修正院の布袋は、
谷中七福神の一つで、
「日ぐらしの布袋」ともよばれる。
谷中七福神めぐりは、
江戸市中で最も古い歴史をもち、
年始めにあたって江戸市民が行う年中行事の一つであった。
江戸時代の中期ごろから、
このあたり一帯は俗に「ひぐらしの里」とよばれ、
江戸近郊の行楽地として賑わった。
ことに修正院・妙隆寺(修正院に合併)・青雲寺は、
境内に多数の花樹を植えて、
「花見寺」の名にふさわしい庭園をつくり、
四季折々の草花を楽しむことができたという。
境内には、
江戸時代の儒者・日尾荊山衣幘碑がある。
『あらかわの史跡・文化財』より”
花見寺を右に見て、
道灌山通りへ向かうと、
またまた立派なしだれ桜を発見!
『滝沢馬琴の筆塚と花見寺(青雲寺)』
“青雲寺は臨済宗の寺院で浄居山と号する。
宝暦年間(1751〜64)、
堀田相模守正亮の中興と伝える。
江戸時代の中頃より「日ぐらしの里」と呼ばれ、
庶民に親しまれてきたこの地は、
四季折々の花を楽しむ人々で賑わった。
そのため、
青雲寺は修正院・妙隆寺(修正院と合併)などとともに、
花見寺ともいわれていた。
現在、
谷中七福神のひとつ「恵美寿」が祀られている。
境内には、
滝沢馬琴の筆塚の碑(文化六年・1809)をはじめ、
硯塚の碑(寛政十年・1798)、
日暮里船繋松の碑、
狂歌師安井甘露庵の碑など、
江戸を代表する文人の碑が多く残っている。
『あらかわの史跡・文化財』より”
とりあえずランチ後にまた来ようと、
『青雲寺』を出る
ランチは道灌山通り沿い、
開成学園前にある『Booooose』へ
くつろげる感じの店内
サラダとパン
お野菜がみずみずしい
外側カリッ、中ホワホワッのパンは、
ソースをこそぐのに最適
新鮮なうにのクリームソーススパゲッティ
できたて熱々
お皿も熱々
ソース濃厚!
美味しい☆
デザートのパンナコッタ
これまた濃厚!
コーヒーはほっとする味
美味しかった〜
思い切ってうににして良かった
かなり理想に近いうにスパゲッティだった
使わなかったけど、
かわいかったので撮ってみた
大満足感とともに谷中霊園へと向かう
『青雲寺』再訪問
ソメイヨシノよりしだれ桜の方が早い!?
ピンクが美しい!
下から見上げてみた
結構な樹齢のよう
フォトジェニなお寺さん
他にも写真を撮りに来られた方がいらっしゃいました
『修正院・妙隆寺』も再訪問
こちらのしだれ桜も見事でした
そしてお隣の『富士見坂』
勾配はきつくない
富士見坂には上らず、
ひたすら直進すると、
谷中銀座に出た
沢山の人で賑わっている
やっぱり外国人が多い
さらに真っ直ぐ歩いて行くと、
立派なしだれ桜を発見!
沢山の人がこのしだれ桜をバックに写真を撮っていました
見事だ〜
すぐ近くの『宗林寺』
こちらのソメイヨシノはまだまだ…って感じ
さらに直進し、
『三崎坂』を左折し、
しばらく坂を上って行くと、
谷中霊園に到着!
が、しかし、思ったより咲いていない
奥に行けば行くほど…咲いていない
結構咲いているように見えるが…
やっぱりそうでもない
今年はエリアによって、
桜の咲き具合いが違うのかなぁ
谷中霊園を後に、
帰路についた
あっ、見覚えのある樹
おーっ、有名なパン屋さん
道なりに行ったら、
『三浦坂』に出た!
『三浦坂』
“『御府内備考』は三浦坂について、
「三浦志摩守下屋敷の前根津の方へ下る坂なり、
一名中坂と称す」と記している。
三浦家下屋敷前の坂道だったので、
三浦坂と呼ばれたのである。
安政三年(1856)尾張屋版の切絵図に、
「ミウラサカ」・「三浦志摩守」と書き入れがあるのに基づくと、
三浦家下屋敷は坂を登る左側にあった。
三浦氏は美作国(現岡山県北部)真島郡勝山二万三千石の藩主。
勝山藩は幕末慶應の頃、
藩名を真島藩と改めた。
明治五年(1872)から昭和四十二年一月まで、
三浦坂両側一帯の地を真島町といった。
『東京府志料』は「三浦顕次ノ邸近傍ノ土地ヲ合併新ニ町名ヲ加ヘ(中略)
真島ハ三浦氏旧藩ノ名ナリ」と記している。
坂名とともに、
町名の由来にも、
三浦家下屋敷は関係があったのである。
別名の中坂は、
この坂が三浦坂と善光寺坂の中間に位置していたのにちなむという。
『台東区教育委員会標識』より”
途中にある『ねんねこや』
なんか惹かれます
三浦家下屋敷は左側…
まさか『ねんねこや』さんは…
不忍通りを渡って、
根津神社に来ました
4/8からつつじ祭りだそうだ
『新坂(権現坂・S坂)』
“東京大学地震研究所の北側を、
根津神社の前へ下る坂である。
本郷通りから、
根津谷への便を考えてつくられた新しい坂である。
根津権現(根津神社の旧称)の前に下る坂なので権現坂ともいう。
森鴎外の小説『青年』に、
「純一は権現前の坂の方へ向いて歩き出した。
…右は高等学校の外囲、
左は角が出来たばかりの会堂(現在の東京聖テモテ教会)で、
…坂の上に出た。
地図では知れないが、
割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに書いたやうに屈曲して附いてゐる」とある。
根津神社は、
六代将軍徳川家宣の産土神とされる。
宝永三年(1706)、
団子坂北の千駄木二丁目の旧地から、
現在地に遷座した。
『ぶんきょうの坂道』より”
結構、急です!
S字に曲がってるので、
半分しか見えない
突き当たりを右に行こうか、
左に行こうか迷ってると、
右奥に坂らしきものが見えた
坂っぽいけど名前がない???
と思っていると、
ありました!
『胸突坂(峰月坂・新道坂)』
“「丸山新町と駒込西片町との界にある坂を胸突坂といふ、
坂路急峻なり、因て此名を得、左右石垣にて、
苔滑か」(『新撰東京名所図会』)
台地の中腹から、
台地に上る坂、
坂上から白山通りをへだてて白山台を望む。
胸突坂とは急な坂道の呼び名で、
文京区内には三ヶ所ある。
この坂のすぐ南に区立誠之小学校がある。
明治八年(1875)に、
第一大学区第四中学区の中で第十三番に創立した。
旧福山藩主阿部家から、
敷地約400坪(約1,320㎡)の五十年間無償提供、
校舎などの寄付を受けた。
旧駒込西片町一帯は福山藩の丸山屋敷跡で、
『中庸』の「之ヲ誠ニスルハ人ノ道ナリ」から誠之館と名づけられた藩校があり、
そのゆかりで誠之の名をとり校名とした。
『ぶんきょうの坂道』より”
地図掲示板を見ると、
近くに二つ坂があるらしい
せっかくなので行くことに
ひとつめ『曙坂(徳永坂)』
“西片二丁目と白山一丁目の境、
誠之小学校崖下の台地の中腹を、
うねうねと続いている道がある。
この道の中程から第一幼稚園の方に上る短い石段坂である。
東洋大学の北西に曙町という旧町名の町があった。
このあたりは江戸時代、
古河藩主土井家の下屋敷であった。
この屋敷の南の方に里俗に鶏声ヶ窪といわれるところがあった。
明治二年(1869)に町ができて、
「鶏声暁にときをつげる」という言葉から、
あけぼの(暁と同じ)をとり町名とした。
この坂の場所と、
旧曙町、
鶏声ヶ窪とは少し離れているが、
有名な鶏声ヶ窪・曙町から、
縁起の良い曙坂の名をつけたのであろうか。
『江戸砂子』の鶏声ヶ窪の項に、
「むかし土井大炊頭利勝の御やしきの辺、
夜ごとに鶏の声あり、
…利勝の御やしきの内、
地中に声あり、
その所をうがち見るに、
金銀のにはとりを堀出せり、
よつてかく名に成りたるといふ」とある。
『ぶんきょうの坂道』より”
上まで行って見下ろしてみた
歴史を感じる表示板
もうひとつは『新坂(福山坂)』
“「町内(駒込西片町)より西の方、
小石川掃除町に下る坂あり、
新坂といふ」(『新撰東京名所図会』)
旧駒込西片町一帯の台地にあった旧福山藩主阿部家の屋敷地へ、
新しく開かれた坂道なので新坂と名づけられた。
また、福山藩にちなんで福山坂とも呼ばれた。
この坂を上って、
すぐ南の所に夏目漱石の旧居跡がある。
そして、この台地西側の崖下一帯が、
旧丸山福山町である。
丸山福山町といえば、
樋口一葉の終焉の地を思い出す。
「いよいよ転居の事定まる、
家は本郷の丸山福山町とて、
阿部邸の山にそひてさゝやかなる池の上にたてたるが有けり、
守喜といひしうなきやのはなれ座敷成しとでさのみふるくもあらす、
家賃は月三円也、
たかけれどもこゝとさたむ」と『塵中につ記』
明治二十七年(1894)四月の一節が記念碑に刻まれている。
『ぶんきょうの坂道』より”
んっ、なんか見たことあるなぁ
あ〜、本に載ってた坂だ!
こっちも同じ坂なのだろうか???
本に書いてあった通り、
興味深い坂だ
空を見上げると雲行きが怪しくなってきた
天気予報でもにわか雨があると言ってたし
目標の10kmは歩いたし
ということで、
春日からバスで帰りました
行ってみることに
千駄木辺りでバスを降り、
プラプラ〜ッと谷中銀座へ
お店は開店準備で忙しそう…
それでも外国人客が、
沢山歩いていました
人気なんですねぇ
夕やけだんだんを上り、
西日暮里方面へ歩いて行くと、
見たことある坂を発見!
『富士見坂』
“坂下の北側の墓地は日蓮宗妙隆寺(修正院に合併)の跡。
妙隆寺が花見寺と呼ばれたことから、
この坂も通称「花見坂」、
または「妙隆寺坂」と称された。
都心にいくつかある富士見坂のうち、
最近まで地上から富士山が見える坂でした。
「関東の富士見百景」にも選ばれています。
『あらかわの史跡・文化財』より”
TVで見た『富士見坂』でした
最近まで富士山が見られたようです
見てみたかったなぁ…
『富士見坂』を下りて右折すると、
立派なしだれ桜を発見!
『日ぐらしの布袋(修正院)』
“修正院の布袋は、
谷中七福神の一つで、
「日ぐらしの布袋」ともよばれる。
谷中七福神めぐりは、
江戸市中で最も古い歴史をもち、
年始めにあたって江戸市民が行う年中行事の一つであった。
江戸時代の中期ごろから、
このあたり一帯は俗に「ひぐらしの里」とよばれ、
江戸近郊の行楽地として賑わった。
ことに修正院・妙隆寺(修正院に合併)・青雲寺は、
境内に多数の花樹を植えて、
「花見寺」の名にふさわしい庭園をつくり、
四季折々の草花を楽しむことができたという。
境内には、
江戸時代の儒者・日尾荊山衣幘碑がある。
『あらかわの史跡・文化財』より”
花見寺を右に見て、
道灌山通りへ向かうと、
またまた立派なしだれ桜を発見!
『滝沢馬琴の筆塚と花見寺(青雲寺)』
“青雲寺は臨済宗の寺院で浄居山と号する。
宝暦年間(1751〜64)、
堀田相模守正亮の中興と伝える。
江戸時代の中頃より「日ぐらしの里」と呼ばれ、
庶民に親しまれてきたこの地は、
四季折々の花を楽しむ人々で賑わった。
そのため、
青雲寺は修正院・妙隆寺(修正院と合併)などとともに、
花見寺ともいわれていた。
現在、
谷中七福神のひとつ「恵美寿」が祀られている。
境内には、
滝沢馬琴の筆塚の碑(文化六年・1809)をはじめ、
硯塚の碑(寛政十年・1798)、
日暮里船繋松の碑、
狂歌師安井甘露庵の碑など、
江戸を代表する文人の碑が多く残っている。
『あらかわの史跡・文化財』より”
とりあえずランチ後にまた来ようと、
『青雲寺』を出る
ランチは道灌山通り沿い、
開成学園前にある『Booooose』へ
くつろげる感じの店内
サラダとパン
お野菜がみずみずしい
外側カリッ、中ホワホワッのパンは、
ソースをこそぐのに最適
新鮮なうにのクリームソーススパゲッティ
できたて熱々
お皿も熱々
ソース濃厚!
美味しい☆
デザートのパンナコッタ
これまた濃厚!
コーヒーはほっとする味
美味しかった〜
思い切ってうににして良かった
かなり理想に近いうにスパゲッティだった
使わなかったけど、
かわいかったので撮ってみた
大満足感とともに谷中霊園へと向かう
『青雲寺』再訪問
ソメイヨシノよりしだれ桜の方が早い!?
ピンクが美しい!
下から見上げてみた
結構な樹齢のよう
フォトジェニなお寺さん
他にも写真を撮りに来られた方がいらっしゃいました
『修正院・妙隆寺』も再訪問
こちらのしだれ桜も見事でした
そしてお隣の『富士見坂』
勾配はきつくない
富士見坂には上らず、
ひたすら直進すると、
谷中銀座に出た
沢山の人で賑わっている
やっぱり外国人が多い
さらに真っ直ぐ歩いて行くと、
立派なしだれ桜を発見!
沢山の人がこのしだれ桜をバックに写真を撮っていました
見事だ〜
すぐ近くの『宗林寺』
こちらのソメイヨシノはまだまだ…って感じ
さらに直進し、
『三崎坂』を左折し、
しばらく坂を上って行くと、
谷中霊園に到着!
が、しかし、思ったより咲いていない
奥に行けば行くほど…咲いていない
結構咲いているように見えるが…
やっぱりそうでもない
今年はエリアによって、
桜の咲き具合いが違うのかなぁ
谷中霊園を後に、
帰路についた
あっ、見覚えのある樹
おーっ、有名なパン屋さん
道なりに行ったら、
『三浦坂』に出た!
『三浦坂』
“『御府内備考』は三浦坂について、
「三浦志摩守下屋敷の前根津の方へ下る坂なり、
一名中坂と称す」と記している。
三浦家下屋敷前の坂道だったので、
三浦坂と呼ばれたのである。
安政三年(1856)尾張屋版の切絵図に、
「ミウラサカ」・「三浦志摩守」と書き入れがあるのに基づくと、
三浦家下屋敷は坂を登る左側にあった。
三浦氏は美作国(現岡山県北部)真島郡勝山二万三千石の藩主。
勝山藩は幕末慶應の頃、
藩名を真島藩と改めた。
明治五年(1872)から昭和四十二年一月まで、
三浦坂両側一帯の地を真島町といった。
『東京府志料』は「三浦顕次ノ邸近傍ノ土地ヲ合併新ニ町名ヲ加ヘ(中略)
真島ハ三浦氏旧藩ノ名ナリ」と記している。
坂名とともに、
町名の由来にも、
三浦家下屋敷は関係があったのである。
別名の中坂は、
この坂が三浦坂と善光寺坂の中間に位置していたのにちなむという。
『台東区教育委員会標識』より”
途中にある『ねんねこや』
なんか惹かれます
三浦家下屋敷は左側…
まさか『ねんねこや』さんは…
不忍通りを渡って、
根津神社に来ました
4/8からつつじ祭りだそうだ
『新坂(権現坂・S坂)』
“東京大学地震研究所の北側を、
根津神社の前へ下る坂である。
本郷通りから、
根津谷への便を考えてつくられた新しい坂である。
根津権現(根津神社の旧称)の前に下る坂なので権現坂ともいう。
森鴎外の小説『青年』に、
「純一は権現前の坂の方へ向いて歩き出した。
…右は高等学校の外囲、
左は角が出来たばかりの会堂(現在の東京聖テモテ教会)で、
…坂の上に出た。
地図では知れないが、
割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに書いたやうに屈曲して附いてゐる」とある。
根津神社は、
六代将軍徳川家宣の産土神とされる。
宝永三年(1706)、
団子坂北の千駄木二丁目の旧地から、
現在地に遷座した。
『ぶんきょうの坂道』より”
結構、急です!
S字に曲がってるので、
半分しか見えない
突き当たりを右に行こうか、
左に行こうか迷ってると、
右奥に坂らしきものが見えた
坂っぽいけど名前がない???
と思っていると、
ありました!
『胸突坂(峰月坂・新道坂)』
“「丸山新町と駒込西片町との界にある坂を胸突坂といふ、
坂路急峻なり、因て此名を得、左右石垣にて、
苔滑か」(『新撰東京名所図会』)
台地の中腹から、
台地に上る坂、
坂上から白山通りをへだてて白山台を望む。
胸突坂とは急な坂道の呼び名で、
文京区内には三ヶ所ある。
この坂のすぐ南に区立誠之小学校がある。
明治八年(1875)に、
第一大学区第四中学区の中で第十三番に創立した。
旧福山藩主阿部家から、
敷地約400坪(約1,320㎡)の五十年間無償提供、
校舎などの寄付を受けた。
旧駒込西片町一帯は福山藩の丸山屋敷跡で、
『中庸』の「之ヲ誠ニスルハ人ノ道ナリ」から誠之館と名づけられた藩校があり、
そのゆかりで誠之の名をとり校名とした。
『ぶんきょうの坂道』より”
地図掲示板を見ると、
近くに二つ坂があるらしい
せっかくなので行くことに
ひとつめ『曙坂(徳永坂)』
“西片二丁目と白山一丁目の境、
誠之小学校崖下の台地の中腹を、
うねうねと続いている道がある。
この道の中程から第一幼稚園の方に上る短い石段坂である。
東洋大学の北西に曙町という旧町名の町があった。
このあたりは江戸時代、
古河藩主土井家の下屋敷であった。
この屋敷の南の方に里俗に鶏声ヶ窪といわれるところがあった。
明治二年(1869)に町ができて、
「鶏声暁にときをつげる」という言葉から、
あけぼの(暁と同じ)をとり町名とした。
この坂の場所と、
旧曙町、
鶏声ヶ窪とは少し離れているが、
有名な鶏声ヶ窪・曙町から、
縁起の良い曙坂の名をつけたのであろうか。
『江戸砂子』の鶏声ヶ窪の項に、
「むかし土井大炊頭利勝の御やしきの辺、
夜ごとに鶏の声あり、
…利勝の御やしきの内、
地中に声あり、
その所をうがち見るに、
金銀のにはとりを堀出せり、
よつてかく名に成りたるといふ」とある。
『ぶんきょうの坂道』より”
上まで行って見下ろしてみた
歴史を感じる表示板
もうひとつは『新坂(福山坂)』
“「町内(駒込西片町)より西の方、
小石川掃除町に下る坂あり、
新坂といふ」(『新撰東京名所図会』)
旧駒込西片町一帯の台地にあった旧福山藩主阿部家の屋敷地へ、
新しく開かれた坂道なので新坂と名づけられた。
また、福山藩にちなんで福山坂とも呼ばれた。
この坂を上って、
すぐ南の所に夏目漱石の旧居跡がある。
そして、この台地西側の崖下一帯が、
旧丸山福山町である。
丸山福山町といえば、
樋口一葉の終焉の地を思い出す。
「いよいよ転居の事定まる、
家は本郷の丸山福山町とて、
阿部邸の山にそひてさゝやかなる池の上にたてたるが有けり、
守喜といひしうなきやのはなれ座敷成しとでさのみふるくもあらす、
家賃は月三円也、
たかけれどもこゝとさたむ」と『塵中につ記』
明治二十七年(1894)四月の一節が記念碑に刻まれている。
『ぶんきょうの坂道』より”
んっ、なんか見たことあるなぁ
あ〜、本に載ってた坂だ!
こっちも同じ坂なのだろうか???
本に書いてあった通り、
興味深い坂だ
空を見上げると雲行きが怪しくなってきた
天気予報でもにわか雨があると言ってたし
目標の10kmは歩いたし
ということで、
春日からバスで帰りました
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